失恋を消化した話

あの人と、いつか2人で行きたいねと話した場所に、別の人と新婚旅行に行くことになった。

 

 

これだけは声を大にして言っておきたいのだが、決して婚約者に不満があるわけではない。何も不満はない。幸せな日々を送っている。

でも、無性にあの人に会いたくなった。

どうしてもあの時の気持ちを思い出したくて、あの人と初めて食事をした、中央線沿いの小さなレストランに1人で行ってみた。

綺麗な二重も、細くて長い指も、穏やかに話す声も、全てに心を奪われたのを思い出したけれど、悲しいことに胸はもうあまり痛まなかった。

少し前までは駅名を聞くだけで涙ぐんでいたのに。

高学歴を自慢しないところが好きだった。食事の時にきちんと手を合わせる仕草が好きだった。歩幅を合わせて歩いてくれるところも、学生時代に行った海外の話も、若いのに盆栽が好きなところも、全部全部好きだった。

彼は、今まで私が出会ったどの男の人よりもぐんと違って見えた。

もしも彼と付き合えたら、今までの私の人生を、がらりと変えてくれるような気がした。

いや、気がした、ではなく、私はあの人に私の人生を変えてもらいたかったのだと思う。

今思えば、なんて浅はかで自己中心的な考えなのだと一笑できるのだけれど。

自分の人生は、自分でしか変えられない。

そんな事すら気付かないくらいに、私は子どもだった。

 


初めての東京の冬を何とか乗り越えられたのは、彼に恋をしていたからだ。

あの冬、街も空も私を包む全てがきらめいて、やけに色鮮やかに見えたのは、きっとイルミネーションの力だけではない。

連絡が来るたびどのくらい時間をあけて返事をするか迷った。デートに誘われた時は飛び上がるほど喜んだ。このまま仲良くなって、2人の時間を積み重ねていけば、いつか彼と付き合えるのだと無邪気に信じていた。私は自分の高鳴る胸の鼓動を抑えるのに必死で、彼自身の気持ちなど考えもしなかった。

だから最後に彼と会った夜、いつも彼が言ってくれていた、またね、という言葉をあの日言わなかったことに気付かなかった。ばかだったから。

 


そして、恋の終わりは呆気なく訪れる。

恋愛はタイミングとはよく言ったもので、それまで同じだったはずの2人の意識や思いは、小さなきっかけで壊れてしまうことを、私は初めて知った。

というより多分、最初から恋なんて始まっていなかった。

私が恋だの愛だの浮かれていただけで、あの人にとって私は彼の経歴に飛びついたよくいる女の1人に過ぎなかったのだろう。

 


それまで毎日来ていたはずの連絡が1週間、2週間と日が空き、とうとう1ヶ月来なかったことで、私は彼が2人に対して出した答えをようやく悟った。仕事が忙しくなるという彼の言葉を、ひたすら信じて待った結果はこれだった。

それでも、そのまま何も言わずに終わることなんてできやしなかった。本当に仕事が忙しいのも、私には全く興味がないのも分かっていたけど、何度も会って、何度も遊んで、何度もご馳走になったのに、このまま忘れられてしまうのだけは、いやだった。

彼の気持ちを思えばそっと離れるべきだったのだけど、どうしてもお礼だけでも言いたくて、ありったけの勇気を振り絞り、初めて私から彼にメールを送った。

よくて既読無視、もしかするとこのメールすらもう読んでもらえないかもしれないと思ったけど、ちゃんと1時間後に返信は来た。

丁寧で、きちんとしていて、私をできるだけ傷つけまいとする、でも私との今後は一切ないことを暗に示した、優しくてさっぱりとした彼らしいメールだった。

あの人は、やっぱりいい人だった。

数ヶ月、そのメールを暗記するくらい何度も何度も読み返しては、いつも彼を想った。

電車に乗っても街を歩いていても、あの人の後ろ姿を探しては、どんなに探しても会えない、狭くて広い東京を恨んで泣いた。

 


あの人の支えになりたかった。あの人となら地獄だって、一緒に行けると思った。

たった片手の指に収まるくらいしか会ってないのに、それでもこんなに好きになるだなんてどうかしていると思いながらも、彼のことを憎むことも忘れることもできずにいた。

彼からのハナムケの言葉の、またどこかで偶然にでも会えるといいね、という優しい嘘を、私は約束だと思って受け取った。その言葉は、今だって私の心の奥深くに針のように刺さって抜けず、前に進むためのなにかを支えている。

 

 

 

あの人と会えなくなってからあの人と似たような人に何人も会ったけど、あの人の放った光が鮮やかすぎたのか、ちっとも心は動かなかった。その人たちが向けてくれる純粋な好意すら疎ましく感じた。

それでもあの人に似た人を探し続け、自分はもう二度と人のことを好きになれないのではないかと半ば諦めつつも動き続けないと心は休まらない、そんな頃に今の彼と出会った。

 


今の彼とあの人が似ているのは身長と、目元くらいだ。

あの人と彼は違う、そう心に言い聞かせてはいたけど、突然この人も私の前から去るのではないかと思うと、なかなか信じられなくて、何度も傷つけては遠ざけた。

そのくせ、彼が少しでもあの人と違う点を見つけると、あの人に会いたくなってはそんな自分を責めた。

 


しばらく今の彼と向き合うことから逃げ続けていたけど、彼は何も言わず、何も求めず、ただひたすらに愛と優しさを与えてくれて、少しずつ私の傷を癒した。 

彼と付き合ってからも私の人生はさほど大きく変わらなかったけれど、心にもたらした変化は大きい。今、彼は私にとって1番大事な存在だと、胸を張って言える。

私の涙を拭う大きな手も、低くて優しい声も、抱きしめる時に屈む仕草も、全てが愛おしい。

電話越しのくだらない会話、一晩中彼の胸で泣きじゃくったこと、両手に抱えきれないほどの花束を持って現れた誕生日、そういう2人しか知らない小さくて幸せなエピソードはいつも私の胸を暖かにする。

私は彼と付き合って初めて、自分よりも大事で守りたいものがこの世にもあったことに気づいた。

 


それでも。

あの人ともし付き合えていたらどうなっていたのだろうとふと考える。

仕事は続けていただろうか。穏やかな日々を過ごしていたのだろうか。案外、スペックの差に怖気付いて不安な毎日だったかもしれないし、連絡不精でケンカばかりだったかもしれない。酔っ払うと説教するのがたまに傷だったけれど、それは私にも向けられていたのだろうか。

そうやって、ありもしない日々を想像し、今の方が幸せだな、と自分を慰めてどうにかこうにか明日を迎える。

そうやって色んなことに折り合いをつけて、沢山のことを諦めて、生きてきた。これからも、そんな風にしか私は生きられない。

 

そしていつからか、あの人を街で探さなくなった。

はやく忘れたいと思いながら忘れられなかったあの人の顔や声も今ではおぼろげで、今の彼を見つめていても、あの人を思い出すこともない。あんないい人に自分の人生の中で出会えたのだから、この世はきっと捨てたものじゃない、と遠く思うだけだ。

 

今はもう、あなたとの思い出を、なかったことにしようとは思わない。

好きだった。たしかに、好きだった。

あなたが私のことを忘れてしまっても構わない。どうか、あなたとあなたの道に光がずっとあり続けますように。